お天気のよい日曜日、気持ちの良い風に誘われて、ちょっと歩いて、買い物に出かけたくなりました。歩いて買い物に出かけるなんて、久しぶりです。我が子が小さい頃には、よく手をつないで、この道を歩いたなあ・・・と、ふと昔を懐かしく思い出しました。でもこれって、ひょっとして年をとった・・・ちがう!ちがう!でも、いつも自転車で、さっと通り過ぎてしまう道も、こうして歩いて通ってみると、ずいぶん景色も違って見えるんだなあ。
周りを見渡しながら、鼻歌交じりに、ゆっくりと辺りを見回しながら、何か楽しく歩いていました。足下に咲くヒメオドリコソウやシロツメクサ・ヒメジオンの、ちいさな草花たちが、なんだか私に話しかけているような気がしました。
“お久しぶりですね。”・・・なんて。
“いつも通っている道だったのに、あなた達をこうして見つめるのも、本当に久しぶりのことでしたね”
子育てに追われ、おしゃれすることも忘れ、ご飯も食べたか食べなかったか、わからなくなるような毎日を過ごしながら、我が子が、一日でも早く大きく育ち、手が離れること、その日ばかりを待ち望んでいました。でも、水仕事でザラザラになった私の手を、ぎゅっと握りしめていてくれた柔らかな小さな手の感触を思い出しました。喜んで、トコトコ歩いては、道ばたの草花を摘んで、“お母さんプレゼント!”と手渡してくれた子どもの笑顔を思い出します。“うれしかったなあ”どんなに疲れていても、我が子の小さな小さなプレゼントに、心も体も元気にさせてもらえました。その花を花瓶に大事にさして、“さあ、今日も頑張るぞ”と、子どもに支えられた日々でした。
この春、そんな息子が、大学進学のため、家から旅立っていきました。残されたパジャマを見て、自分でも信じられないほど涙がこぼれて仕方有りませんでした。その時つくづく思いました。
“いつも一緒にいることは、当たり前じゃなかったんだなあ。”
あれほど1日も早く手が離れて、独り立ちしてほしいと願っていたのに、その日が来たら、こんなにも心に大きな穴が開いてしまうなんて・・・。一緒にいられる時間がどんなに大切だったか、どんなに貴重な物だったか、どんなに嬉しい時間だったのか、はじめて知らされました。
今、目の前にいてくださる、幼稚園のかわいいお友達。
毎日、私の所に来て下さり、一緒に過ごさせて頂いていることも、
決して当たり前でないことを、改めて思わせて頂いています。
今、この瞬間を心から大切に過ごさせて頂きたいと、願わずに
いられません。私の心の穴は、今“先生!ハイッ!”と、草花を
ぎゅっと握りしめた幼稚園のお友達の小さな手の中の、クローバーや
ヒメジオンの優しい花束のおかげで、笑顔でいっぱいにしてもらいました。 “ありがとう。お友達” “ありがとう、中央幼稚園”
6月のこころより
『いつもの道で』
先日、お家の皆様方にご協力を頂き、大切な半日の時間、教師の研修会に参加させて頂きました。その時に、講師の先生のお話をお聞きし、私は、今の自分自身の生き方、ものの考え方を、もう一度見つめ直す機会を頂きました。
講師の先生は、金子みすず記念館の館長さんで、金子みすずさんの生き方、ものの考え方のお話をして下さいました。その先生のお話の中で、とても考えさせて頂いた言葉がありました。それは、
「私とあなた」 と 「あなたと私」
「自分中心」 と 「自分を中心に」
最初にこの言葉を聞いた時、私は、どちらも同じことではないかと、この言葉の想いの違いがわかりませんでした。しかし、よく話をお聞きしているうちに、「私とあなた」は、まず「私」がいて、次に「あなた」がいることから始まっていることを、教えて頂きました。だから、「どうして私はこんなにしているのに、あなたはわかってくれないの?」と求める気持ち、自分の想いにそぐわないことがあると、まず“相手を”責めたり、追及する気持ちが出てきてしまうのです。それが、「自分中心」、自分が優先の生き方になっているということです。
一方、「あたなと私」は、「あなたによって、私は生かさせて頂いている。」私という存在は、あなたがいてくれないと成り立たない、ということを教えて頂きました。「あなた」が先にいて、次に「私」がいるのです。「自分を中心」の私が、本当は、私以外のすべての存在によって生きていけるのだということを教えて頂きました。私は、今までどちらの想いでいただろう…そう考えさせて頂きました。
幼稚園のお友達とお家のみなさんと、自分自身の家族と過ごさせて頂く中で、「私とあなた」に、なっていたことばかりだったのではないかと思います。
しかし、私は、お友達とお家の皆様方によって、教師として生かさせて頂いている私です。両親に命を頂き、「私」として生かさせて頂いている私です。家族に支えて頂き、今こうして元気に過ごさせて頂けている私です。自分の力だけで生きていけることは、何一つありませんでした。そのことに気付かせて頂いて、改めて、私の周りにいて下さっている全てのみなさんに感謝の気持ちでいっぱいになり、こうして、私が生きるために、沢山の皆さんがいて下さることが、どんなに幸せなことなのか、嬉しい気持ちでいっぱいになりました。
だからこそ、自分中心ではなく、もう一度、自分を中心にした、周りの皆さんに目を向け、皆さんのおかげ様に心を向け、一緒に生かさせて頂きたいと思います。物事を考える時に、人を責めたり追求することから始めるのではなく、まず自分自身を見つめ直すことのできる人に、少しでもなれるように、努力していきたいと思います。
まだまだ未熟で、道を間違えながら、皆さんに教えて頂きながら、歩ませて頂いている私ですが、これからも一緒に生かさせて下さい。宜しくお願い致します。
5月のこころより
『あなたと私』
園児の皆さん、ご入園・ご進級おめでとうございます。
保護者の皆様も、きっと今、お子様の将来に大きな期待を持ち、
輝く未来に夢をはせておられることと思います。
その為に、今皆様のお子様に必要なことは何でしょうか。
いま、この幼児期に身につけなければ、一生身に付くことができないことです。それは、皆さんがご存じの通りですね。
1つには、全ての人間が生きていく中で必要になる感情をつかさどる、こころを、しっかりと自分の意思で動かすことができることです。
2つめは、生きていく上で必ず必要な生活の本になる約束である生活習慣です。
これらを身につけて頂くことを、しつけというわけですが、
皆さんは、お子様にどんなしつけの仕方をなさっていますか?
「こどもをほめて、やりたくなるようにしています。」
こんな答えを頂きます。お子様のことをしっかりと考え、お子様に向き合いながらしつけを考えて頂いていることに、ありがたく思います。
でも、もう一度考えてみる必要があるように思えるのです
”ほめるしつけ”とても大切な考え方です。幼稚園でも、取り入れています。ですが、皆さんは、ほめるとはどうすることか、明確に説明していただけますか?ひょっとして、”ほめる”と”おだてる”ことが、混同してはおられませんか?ほめるのは、相手のしたことに感動し、そのことを共感し喜び合うことです。子どものしたことが、親である私が希望したとおりになってくれれば、闇雲にほめてしまってはいませんか。しかも、形だけで。こどもが、ほめられ慣れしてしまうことなく、きちんとほめられることを喜んでいますか?あるいは、できた後のごほうび、・・・(物であっても、言葉であっても)子どもが期待してしまってはいませんか?ご褒美のため、ほめられるために子どもは頑張ってしまってはいませんか。
子どもにやる気を出し出もらうためのほめることが、やる気ではなくほめられたい子を育てることにはなっていませんでしょうか?
子どもは、親の願いに、無条件で応えようとする存在です。
親がよくやったね。そういってくれるのが無上の喜びなのです。
でも、あまりにほめられることが日常化し、だんだん親の方も適当にほめてしまったら、きっとそのうち、子ども達もわからなくなってしまうでしょう。”これって、なんでやってるんだろう?これ、私がやりたいことだったっけ?”
子どもは、自発的に物事を吸収しようとし、自分から行おうとする存在のはずです。それが、ほめられるため、怒られないため、誰かの目を意識しながら生きていくように私たちが、”ほめることだ”とおもって行ったしつけのおかげで、育ってしまっていたりはしませんでしょうか。
自分がやりたいことをやっていたら、周りの人も喜んでくれたのでしょうか?誰かにほめられるために、やっているのでしょうか?
まず大切なのは、子どもと一緒に感動できる親であるかどうか。
ほめることで、子どもになってもらいたい姿を、きちんと私は持っているか、このことではないでしょうか。
今年、幼稚園ももう一度、”ほめる子育て”をきちんと見直してみたいと思います。1年の始まりに、みなさんもお考え頂いてみてはいかがでしょうか?